人生の途中のぼんやりとした終わり(『日の名残り』カズオ・イシグロ)
いつも通りの時間に起きて決められた仕事をこなし、顔ぶれがだいたい一緒の電車に帰宅するため乗り込む。
餃子でも食べようかななどと考えながらいつもの吊革につかまり、窓ガラスにうつる自分の顔が老け込んだことにたまに驚く。
そして昔のああだこうだをちょこっと思い出し、そしてすぐに忘れる。とにかくメシ食って、働いて、寝なくてはいけないから。やることはたくさんある。おもに労働について。
労働は重要だ。生活のための金を稼ぐことという具体的に必要なことと、社会につながる手段というふたつの点で。
もちろん労働がめんどくさいものであることには間違いない。しかしそのめんどくささがなくなったとしても、たぶんほかのめんどくささが立ち現れてくるのだろう。
そして社会とつながる手段であるということはとくに大きい意味を持つだろう。それは仕事を定年退職したあとにやることを見つけることのできないたくさんのひとを見ればわかるだろう。
うん、そうだ、労働は重要だ、労働は重要なんだと自分に言い聞かせているうちに最寄り駅に着く。
働きたくねえなーと思いながら働く。けっこう多くの人が。もちろん仕事がだいすきというひともたくさんいらっしゃるだろう。それに働かずにすむひとも少数だろうがいるだろう。しかし、働いているいないに関わらず、仕事はひとを説明するうえでいちばん手っ取り早い要素だ。
とにかく労働はいろいろな理由で大切ということには間違いない。
で、その労働をなくしかかっているひとが主人公の小説が『日の名残り』である。以下、導入部分。
名門貴族に仕えることを代々の仕事にしてきた執事、スティーブンス。彼は自分が主人に対していかに忠実でいることができるか、理想の執事として振る舞うことができるかということを大切にしてきた。
しかし、時は移り変わり主人はアメリカ人に替わり、執事に求められる素養も変わった。そうした新しい環境に慣れようと四苦八苦しているとき、彼は主人から休暇を与えられる。執事に休日はないことが当たり前と思っていた彼は驚くが、主人の厚情を受け取らないのは悪いと思い、旅行に出ることにする。
それは数十年のあいだ屋敷から出ることのなかったスティーブンスにとっては初めての旅行であり、またその旅行は自分の過去を巡る追憶の旅でもあった。
みたいなかんじである。
スティーブンスの視点から語られる一人称の小説であり、つまりスティーブンスの物語である。
この主人公は仕事を自分の軸として生きてきた。それはいかに執事らしくあることができるかということで、自分の感情や思いは二の次にするということだった。
追憶の旅と書いたが、いかに自分は自分を殺して職務に励んだか、いかに自分は理想の執事だったか、そしてその理想の執事である自分が仕える主人はいかに優れた人物であったか……という要するに昔の俺はすごかったんだという話が語られる。
それは現在の自分がおかれた状況に対する不満を表すものでもある。スティーブンス自身はそのことを決して認めようとはしないが。
だからスティーブンスは無理そうなことを考える。馬の合わない主人であろうが、執事は執事なのだから執事らしく完璧な仕事をすべきだし、またいままでは完璧な執事だった自分を振り返ればできるに決まっている。だから自分は執事として、完璧な行動をするべきだ。
過去のしあわせだった時代に浸り、現状を正しく把握できないひと。それが本を読み始めたときに思った、スティーブンスに対する俺個人のイメージである。
しかし、本を読み進めていくうちにスティーブンスは過去も正しく把握できていないということがわかってくる。いまの自分に都合のいいように、あることを思い出さないようにし、あるひとの感情をわからないふりをし、自分を殺していたことを忘れようとしている。
といった書いていないことがどれだけ重要なことなのかということを一人称視点で書くことにより伝えてくるすごくおもしろい小説である。
スティーブンスをけっこうけなすように書いてしまったが、べつに嫌いではない。
スティーブンス的なものが俺のなかにも確実にあって、だから過剰に反応してしまうんだろう。というかどちらかというと好きだ。
とにかくスティーブンスがすごくかっこわるくて、でもそのかっこわるさがなんだか愛おしいような憎いようななんとも言葉にできない気持ちにさせるこの言葉だけでできている小説はめっちゃおもしろい。
仕事に限らず、なにかに悩んでいるひとは読むと解決はしないけど、なにかしらが楽になると思う。少なくとも夕方は最高だと思うようになる。とにかく時間があったら読んでみたらいい。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05
- メディア: 文庫
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