個人的に感じる感情とのつきあい方
たとえば自分の心とは思い通りにならない他人のようなものですとか、不快な感情はセンサーのようなものだという考え方がある。そうだなと思う。
そうした見方もあることを知れば、自分の主観的な感情からすこし距離を置いて考えることができるようになる。ああ、自分はいま怒っているなと思うことができるのはとても役に立つ。それは自分が雑に扱われていると感知してその状況を変えなくてはいけないということを示しているのかもしれないし、もしくはそんなことをされて自分は怒っているのではなく本当はただ悲しいのだという気づきにつながるかもしれない。
とかなんとか思ったところで感情と手を切ることはできない。俺はこれから先も喜ぶし怒るだろうし、哀しんだり楽しんだりする。それらに当てはまらないたくさんの感情を感じ、それを言葉にしようとすることを楽しむだろう。
みたいなことを俺は感情について思う。
だからもう怒らないようにする、とか悲しみを捨て去って新しい自分になる、みたいなタイトルがついた本にはどこかうさんくささを感じてしまう。そういった本を読んだことがないのでこう言うのはフェアではないかもしれない。そうした言葉はただのレトリックであるかもしれないし。でもただのレトリックとはいえ、感情をある意味でないがしろにすることをすすめる本はやっぱりうさんくさいと俺は感じる。
つまりなにが言いたいのかというと、快も不快もひっくるめて感情はどれもこれも大切だということ。しかしあまりにも過剰な感情は自分とまわりのひとにとって好ましくない場合が多いので、認知を変えようということ。そのうえで快の感情を増やすように行動していこうということ。以上みっつになる。
自己啓発みたいになってしまったけど、なにがどうなろうと感じることをやめるのは脳が損傷するとかしないかぎり無理なので、ぼちぼち機嫌良くやっていこうよということを最終的にはいいたい。
感情的になってしまうことが多くて困ってるんですよーと、べつに本気では困っていないけどちょっと言っとくかみたいに後輩の女の子に言われたので上記のようなことを俺は言ったのだけど、へーと言われた。それで話題はすぐにポテトフライはおいしいに変わった。俺はえもいわれぬ感情を抱いた。
自分にとってとあなたにとっての差について考える人へ(『八月の六日間』北村薫)
いつの間にやら駄目になっていることに気づいてびっくりするものはたくさんあります。生命を育む土壌と化した炊飯ジャーのなかのごはんとか、季節が何周回っても流行することはないなこれとある日ふと気づくお気に入りだったはずのわけのわからない形状のシャツとか、端的に恋人との関係とか。
なんとなくこのままではいけないよなーとうっすら思っていたりはするのだけど、日々の忙しさにかまけて忘れているふりをしているうちにだいたい取り返しのつかないことになってしまっている。
そしていつもこう思うのです。もっとはやく対処しておけばと。
という感じのようなことを繰り返してきたひと、わかっているけどさまざまなものを失ってきたという感じのひとにおすすめなのが『八月の六日間』です。
この小説では劇的なことは起こりません。主人公に起こるのはとてもありふれたことです。仕事の上での人間関係のきしみや、恋人との別れ、そして大切な友人の死など。誰しもが経験することといっていいでしょう。しかし、経験する当人にとってはとてつもなくしんどいことです。
そうしたさまざまなやりきれないことを経験しながら、主人公は山に登ります。べつに登山することになにかを託すわけでもなく、なんだかうまく動かない心のまま、ただ山に登ります。
べつに自分の抱えてる問題が解決されるわけでもなく、山で出会うなんやかんやによって内面の劇的な変化が起きるわけでもなく。
そうこうしているうちに、主人公はいつのまにやら自分は大丈夫かもと思えるようになります。体は疲れているし、相変わらず胸にはわだかまりが残っているのにも関わらずです。
この小説は現実が厳しいときも多々あるということを前提にしたうえで、可能な限りやさしく書かれたものだと個人的には思います。これ以上厳しくしてもやさしくしても嘘になってしまうぎりぎりのところで。フィクションだから嘘の一種であるということはもちろんなのですが、なにかしらの真実は間違いなく書き込まれています。舞城王太郎が「ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ」と書いているみたいに。
なにもかもがめんどくさいままどうにかやっていけるかもな、と思わせてくれる小説です。
なにが言いたいかというとこれはおもしろい小説だぜ、ということです。ちょうどもうすぐ文庫が発売されるのでこれを機に読もうぜ、ということです。
人生の途中のぼんやりとした終わり(『日の名残り』カズオ・イシグロ)
いつも通りの時間に起きて決められた仕事をこなし、顔ぶれがだいたい一緒の電車に帰宅するため乗り込む。
餃子でも食べようかななどと考えながらいつもの吊革につかまり、窓ガラスにうつる自分の顔が老け込んだことにたまに驚く。
そして昔のああだこうだをちょこっと思い出し、そしてすぐに忘れる。とにかくメシ食って、働いて、寝なくてはいけないから。やることはたくさんある。おもに労働について。
労働は重要だ。生活のための金を稼ぐことという具体的に必要なことと、社会につながる手段というふたつの点で。
もちろん労働がめんどくさいものであることには間違いない。しかしそのめんどくささがなくなったとしても、たぶんほかのめんどくささが立ち現れてくるのだろう。
そして社会とつながる手段であるということはとくに大きい意味を持つだろう。それは仕事を定年退職したあとにやることを見つけることのできないたくさんのひとを見ればわかるだろう。
うん、そうだ、労働は重要だ、労働は重要なんだと自分に言い聞かせているうちに最寄り駅に着く。
働きたくねえなーと思いながら働く。けっこう多くの人が。もちろん仕事がだいすきというひともたくさんいらっしゃるだろう。それに働かずにすむひとも少数だろうがいるだろう。しかし、働いているいないに関わらず、仕事はひとを説明するうえでいちばん手っ取り早い要素だ。
とにかく労働はいろいろな理由で大切ということには間違いない。
で、その労働をなくしかかっているひとが主人公の小説が『日の名残り』である。以下、導入部分。
名門貴族に仕えることを代々の仕事にしてきた執事、スティーブンス。彼は自分が主人に対していかに忠実でいることができるか、理想の執事として振る舞うことができるかということを大切にしてきた。
しかし、時は移り変わり主人はアメリカ人に替わり、執事に求められる素養も変わった。そうした新しい環境に慣れようと四苦八苦しているとき、彼は主人から休暇を与えられる。執事に休日はないことが当たり前と思っていた彼は驚くが、主人の厚情を受け取らないのは悪いと思い、旅行に出ることにする。
それは数十年のあいだ屋敷から出ることのなかったスティーブンスにとっては初めての旅行であり、またその旅行は自分の過去を巡る追憶の旅でもあった。
みたいなかんじである。
スティーブンスの視点から語られる一人称の小説であり、つまりスティーブンスの物語である。
この主人公は仕事を自分の軸として生きてきた。それはいかに執事らしくあることができるかということで、自分の感情や思いは二の次にするということだった。
追憶の旅と書いたが、いかに自分は自分を殺して職務に励んだか、いかに自分は理想の執事だったか、そしてその理想の執事である自分が仕える主人はいかに優れた人物であったか……という要するに昔の俺はすごかったんだという話が語られる。
それは現在の自分がおかれた状況に対する不満を表すものでもある。スティーブンス自身はそのことを決して認めようとはしないが。
だからスティーブンスは無理そうなことを考える。馬の合わない主人であろうが、執事は執事なのだから執事らしく完璧な仕事をすべきだし、またいままでは完璧な執事だった自分を振り返ればできるに決まっている。だから自分は執事として、完璧な行動をするべきだ。
過去のしあわせだった時代に浸り、現状を正しく把握できないひと。それが本を読み始めたときに思った、スティーブンスに対する俺個人のイメージである。
しかし、本を読み進めていくうちにスティーブンスは過去も正しく把握できていないということがわかってくる。いまの自分に都合のいいように、あることを思い出さないようにし、あるひとの感情をわからないふりをし、自分を殺していたことを忘れようとしている。
といった書いていないことがどれだけ重要なことなのかということを一人称視点で書くことにより伝えてくるすごくおもしろい小説である。
スティーブンスをけっこうけなすように書いてしまったが、べつに嫌いではない。
スティーブンス的なものが俺のなかにも確実にあって、だから過剰に反応してしまうんだろう。というかどちらかというと好きだ。
とにかくスティーブンスがすごくかっこわるくて、でもそのかっこわるさがなんだか愛おしいような憎いようななんとも言葉にできない気持ちにさせるこの言葉だけでできている小説はめっちゃおもしろい。
仕事に限らず、なにかに悩んでいるひとは読むと解決はしないけど、なにかしらが楽になると思う。少なくとも夕方は最高だと思うようになる。とにかく時間があったら読んでみたらいい。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05
- メディア: 文庫
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私や俺とか君などのかんせいの過程(『バグる脳』ディーン・ブオノマーノ)
ここ百年くらいでとてつもない早さで科学が進歩し、生活が豊かな方向へと劇的に変化していったが、我々ニンゲンのつくりは数千年前となんら変わっておらず、いろいろな危険があった原始時代用にチューニングされている脳のさまざまな機能がいまとなってはもろもろの問題を生む原因となっている。みたいな感じの本である。おもしろかった。
まず脳というものがどういった装置でどういうふうに働くのかということが説明され、そのあとに記憶や時間感覚、恐怖ってなんなのという細々としたことについて丁寧な説明がなされていく。後半では宗教やマーケティングについても語られる。
おもしろかった。そして安心した。やっぱ俺(の脳)まあまあバカなんだ! と思えたからである。
なぜそんなことを思ったかというと、俺の脳の限界をある程度知ることができたからだ。自分の駄目さを脳に押しつけるのはかっこうわるいと我ながら思うが、でも脳には向いていることと向いていないことがあり、そして個人差も大きいことをしっかりと知ることができた。それは俺にとってはなんとなくほっとすることだ。
脳の効率的な使い方のような実用的な本ももちろん大切だけど、脳ってすごくない部分もたくさんあるんだぜということをおもしろおかしく(しかもすごい量のデータを使って)書いてある非実用的な本も同じくらい大切だと思う。
後者の方が役に立つ場面って多いと個人的には感じるし。
とにかくおもしろい本だった。脳はけっこう頭が悪いっていいフレーズだと思う。
安直な自己啓発に違和感があるひとへ(『孤独の科学』ジョン・T・カシオポ、ウィリアム・パトリック)
孤独感という主観的な感情を軸にひとについて語ろうとしている本である。とてもおもしろい。
まず孤独感はなぜ感じるのか?といったことがひとはそもそも社会的な生物であり、集団からはじき出されると生きていくことが難しかったから、仲間はずれにされたときにそう感じるようにできているのだという経緯が語られる。
そしてひとに似た動物であるチンパンジー、ボノボがどのように集団生活を営んでおり、それがひととどんなふうに違うのかということが語られる。
また著者自身の経験やさまざまな心理学実験、はたまた脳科学が引かれてひとはどういったときに孤独感を感じるかということが語られる。
そういったことをまとめると、次のようになる。
孤独を感じるのは人間だから。
そういったある意味では身も蓋もない認識がまずこの本の前提にはある。さびしい? しゃあねえよなあ、にんげんだもの、ってな感じに。
そうしたさまざまな科学的なデータを積み上げて、孤独を科学的に説明するといったことがこの本の大半を分量的には占めている。そこももちろんおもしろい。
しかし、そこが本書のいちばんおいしい部分ではないと俺は思う。俺は、そういって説明された孤独感へどのように対処すればいいのかということが語られた後半が非常におもしろかった。
なぜなら、それは毎月大量に出版される自己啓発のような内容だったからだ。ひとに対して親切にしなさい、起こってもいないことで思い悩むな、具体的な行動をとろう、などなど。
そういったわかっとるわそんなこと、という内容が説得力のある文章で書かれているのだ。最終的な結論自体はそこらへんにある自己啓発書と同じであるにもかかわらず、そこに至る過程が違う。
俺は本書を読み終えたときにはいい人間になろうとちょこっと思ったもの。もちろんそんな簡単に性格が変わったりはしないけども、俺にとっては非常に説得力のある本だった。
最近の安直な自己啓発書に対して違和感があるひとは読んでみるといいかもしれない。役に立つ立たないは置いておいて、とにかくおもしろい本であるので。
- 作者: ウィリアム・パトリック,ジョン・T・カシオポ,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2010/01/20
- メディア: 単行本
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物語に思うもろもろのこと(『絶望読書』頭木弘樹)
なんで物語って存在するのだろう。小説や漫画を読むのは楽しいし、映画や演劇を見るのはおもしろい。でも、実際の役には立たない。歯痛が治まったり、部屋の空気がきれいになったりしない。
空想上の花子や太郎の懊悩とか喜びとかその他もろもろの感情の変化の過程を知って、それがなんになるのだろう。
そんなことを物語を楽しむようになってからちょくちょく考えるようになった。いまでもたまに考えている。
というわけで『絶望読書』である。この本にはその疑問に対してひとつの回答が書かれている、というふうに俺は読んだ。
いきなりだが、精神科医のオリヴァー・サックスは『妻を帽子とまちがえた男』でこんな風に書いている。
われわれは、めいめい今日までの歴史、語るべき過去というものをもっていて、連続するそれらがその人の人生だということになる。われわれは「物語」をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう。(早川文庫、P209)
つまり「わたし」や「あなた」は記憶の集積からできている。とすると「わたしらしさ」というのはいままでに積み上げてきた自分の行動、感情の反応の延長線上にあるものということがいえる。
で、『絶望読書』にもどる。タイトルにも入っている絶望という言葉は上記の「わたしらしさ」を奪われることじゃないかと思う。たとえば将来を嘱望されていた野球選手が肘を壊して選手生命が絶たれるようなこと。子どもを授かることを望んでいる夫婦が夫もしくは妻が原因で望めないということがわかること。
いままでの「わたし」ではいられなくなること。それを絶望という。
この本にはそういった絶望からの立ち直り方が書いてあるわけではなく、絶望とのつきあい方が書いてあるように俺には思う。
そしてそのつきあい方にはフィクション、「物語」が有用であるということも。
とにかくこの本はおもしろいから読んだらいいと思う。
いつのまにかすりへっていたなにかについて(『アメリカン・スナイパー』クリス・カイル)
話す内容はふたつに分けることができる。現実の出来事(昨日のテレビ番組、隣の猫が消えた、会社のおおきな取引が終了した、友人のおもしろいくせ)と、それに対する自分の感想(おもしろかった、心配である、ちょう疲れたけどおれすごくね、そういうとこが好き)である。こう言い換えることもできる。世界についてと自分について。
なぜそんなことを書いたかというと、『アメリカン・スナイパー』には後者のことがほとんど書かれていないと思ったからだ。この本を読んでいる最中に感じたことについて書く前に、作者とその内容について軽くまとめる。
レッドネックだと自称する青年が軍隊に入り、その中でのしごきやいじめ、そして実際の戦場での経験をつづった自伝である。作者であるクリス・カイルは狙撃手として敵兵160名を殺害し、味方からは「ザ・レジェンド」と呼ばれ、敵からは「ラマディの悪魔」と恐れられるほどに活躍した優れた兵士だった。
時系列順にこの本は構成されており、上記の内容をおおざっぱに並べると次のようになる。
入隊するまで
↓
軍隊での訓練と仲間との交流
↓
戦場での経験
作者の妻のコメントが所々に挿入されており、彼女の書こうとしていることと作者の書こうとしていることのずれが、この本をおもしろいものにしている。作者はおおむねどういったことがあったかを客観的に書こうとしており(あるターゲットを狙撃したときの装備、距離、観測者との会話など)、妻はさまざまなことに対して自分の気持ちを主観的に書こうとしている(夫が戦場にいることへの心配、子どもを産むことへの不安)。
ここまで内容と構成についてごくごくおおざっぱではあるがまとめた。ここからは個人的な感想について書く。
この本を読み終えたあとに残っているのは虚無感だった。作者はもしも戦場で死ぬことになったとしてもそれは仕方ないことだと思っており、「おれはそのうち死ぬ。きみはほかの男を見つけてくれ。こっちではいつも誰かが死んでいる。死んだ男の奥さんは別の男を見つけているよ」と妻に対して語る。
上記は作者に病気の疑いがかかったさいの言葉である。それに対して妻は「でも、あなたには息子がいるのよと返す。「だから何だ? ほかの男が見つかれば、そいつが息子を育てるさ」と作者は言う。そして、妻はこう思う。
クリスはあまりにも頻繁に人の死を見ているために、人は代わりがきくと思い始めているんじゃないだろうか。
この本はおもしろいからいろいろな読み方ができると思う。その中でも俺は作者の物事を判断する乾き具合がいちばん印象に残った。とにかくおもしろい本だった。
- 作者: クリス・カイル,スコット・マキューエン,ジム・デフェリス,田口俊樹・他
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/02/20
- メディア: 文庫
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