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読書の感想とか

現実を物語にすること(ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』)

フィクション

 『悲しみのイレーヌ』を読んだ。この小説はとてもおもしろい。そしてとても悪趣味だ。

 

 異常な連続殺人事件を追う刑事たちの様子がユーモラスに描かれたミステリー、というふうにこの小説はまとめることができる。でもそれだけじゃなくて、俺はカウンセリングの事例報告の問題とこの小説はつながるんじゃないかなーと思った。ということで、以下脱線。

 

 自分が受け持ったとあるクライアントがどのように変わっていくかということを、カウンセラーは職業的な訓練としてお互いに報告しあう。これを事例報告という。

 

  Aという女性のクライアントがいたとする。彼女は女子高生で、権威的な父と抑圧的な母のもとで生活しており、兄はその家族から逃げ出すように家を出て行っ た。彼女は自分だけは家族のためにしっかりしなければと常々感じており、友人とのつきあいは最小限にとどめ、自分を厳しく律して勉強に励み、そして結果を 出している。「成功した人生」を送るにはそうしないといけないと強く思っているからだ。

 

 そんな彼女がからだの不調を訴える。さまざまな病院を巡っても原因はわからない。もうどうすればいいのか、彼女にも家族にもわからない。わらにもすがる思いで彼女はカウンセリングを受けることになる。

 

 個人が特定されないように情報は改変されているが、カウンセリングの事例報告はそのように、クライアントの生活を物語にすることでおこなわれる。

 

 ここでひとつ問題がある。その事例報告は現実に存在するクライアントのことをわざわざ語る必要はないのではないかということだ。想像上の人物を設定し、想像上の問題を彼もしくは彼女に与え、どのように回復していったかを報告すればいい。

 

 そうした問題点を指摘されたカウンセラーは、それは大切なことで考えなくてはならないことだと言った。

 

 『悲しみのイレーヌ』に話は戻る。この小説は物語内物語がその大半を占めているという構成でできている。小説の九割を占める第一部は、じつはいかれた殺人犯が想像力を働かせて書いた物語で、第二部はいままでその物語内物語で描かれていた刑事たちとはさまざまな点で違う現実の刑事たちが犯人を追うという、ふたつのパートに分かれている。第一部が物語で、第二部が現実。

 

 そして第二部の現実は悲劇的な物語みたいに終わる。もちろんこの本自体がフィクションだし、タイトルから悲劇的な結末なんだろうとたいていの人が予想するだろうけど、そのうえでこう終わるのかと驚くと俺は思う。

 

 カウンセリングの事例報告における問題(それはべつにつくりばなしでもいいのではないか)が、この小説をあいだに置くとすこしわかるような気がすると俺は思う。でもわかりにくい結論を述べる前にもうすこしだけ回り道をする。

 

 俺は毎日決まったことをして過ごしている。そしてすこしおもしろかったことがあったりすれば、その前後を省略し、おもしろいところだけを抽出して友人に話す。こんなおもしろい本があった、電車にスーパーマンの衣装を着たむきむきの男性がいたよ、などなど。

 

 その本を読んでいるときの俺の姿勢とか、電車の窓から差し込む陽がきらきらと輝いていたなんてことは切り落とす。そうしたほうが俺の伝えたいことをちゃんと相手に伝えることができると思うからだ。

 

 それに実際にあったことを話す必要もないと言える。キリンが電車と併走していて驚いたなんてことを俺は話そうと思えば話せる。話さないけど。おもしろくもないし。

 

 つまり俺は自分の現実(体験でも感じたことでも)を日々しこしこと物語に加工して誰かに伝えている。ときどきは現実にはなかったことを話すこともある。でもそれらふたつが端から見たら物語であることには変わりない。

 

 たぶんカウンセリングの事例報告における問題と、物語と現実の比重が偏った『悲しみのイレーヌ』と、俺がなんの気なしにやっているすこし変わったことを誰かに伝えることは次の考え方をとればすこしわかるんじゃないか。

 

 ひとは現実を物語を通して認識している。

 

 とにかくなにが言いたいかというと『悲しみのイレーヌ』はおもしろい。