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読書の感想とか

ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』を読んだ日

 ミランダ・ジュライが書いたノンフィクション『あなたを選んでくれるもの』を読んだ。おもしろかった。しかしなにがおもしろかったのかということを言葉にするのは難しい本だった。ということでそれをつらつらと考えながら書いていく。

 

 作者が追い詰められているところからこの本は始まる。彼女は映画を撮ろうとしているのだが、その作業が行き詰まってしまう。そこで現実逃避として、自分の名前をググり自分がいかにうざがられているか知るという自分でもこんなことをしていてはいけないと思うような日々を送っている。そして彼女は発作的に、新聞に折り込まれたフリーペーパーに「○○売ります」と個人で広告を出しているひとたちにインタビューすることを思いつきそれを実行にうつす。目の前の作業から逃げ出すために。

 

 ネットが発達したこの時代にわざわざ紙媒体に広告を掲載する人々は、自分の名前をググりいかにうざがられているかを手軽に知る彼女とは違う人々である。そしてそれはこんなふうにネットで日記を書いている私とも違うといえるだろうし、もっというなれば現代の多数のひとたちとも違ったひとびとであるといえると思う。

 

 彼女は自分とは違うひとびとに出会い、驚き、うんざりし、感動したりする。ページを繰る私もそう感じたし、ネットに繋がってさまざまな情報を見たり聞いたり交換したりする他のひともこの本を読んだらそう感じるんじゃないかと思う。

 

 彼女の理解の及ばない人たち、私の想像を超えたひとたち、あなたとは異なるひとたちが登場する。すっきりしない一文にまとめれば、「他者」との交流がこの本では書かれている。と私は思う。

 

 話は変わって、私は本が、その中でもフィクションが好きでずっと読んできた。

 

 そうやって読書をする理由は楽しいからの一言に尽きるのだけれど、同時にこうも思う。俺はなんで現実にはいないひとたちがあーだこーだするさまが描かれた文章を読むのが好きなのだろう、意味ないのに。理由はもちろん楽しいからという一言に尽きる。不毛だ。

 

 そうした原因とか理由を言葉にすることはむずかしい生理的な好き嫌いはどこからやってきたのだろうと思う。自分が生まれた環境にたまたま本を読むことが選択肢のひとつとしてあったから私はいま本を読んでいるわけだけど、それ以外の選択肢を選ぶこと、例えば重いものを床から持ち上げることとかを無上の喜びにしてももちろんよかったわけだ。

 

 でも気づいたら私は読書やドライブ、ギターを弾くことが好きで、友人との馬鹿話を楽しんだりする人間になっている。筋トレはあまり好きじゃない。

 

 もちろんいろいろと変わったものもある。禁煙はしたし、すばらしい音を求めてエフェクターを買ったりしなくなった。納豆が好きになったし彼女とは別れたし、ミッシェルガンエレファントを聴いても心躍らなくなった。

 

 そういうことは俺が選んだことじゃないよなと思う。好き嫌いは私が選ぶんじゃなくて、向こうが選んだという面もあるな、と。

 

 好きだったものがどうでもよくなったり、嫌いだったものが好きになったり、必要なものを諦めたりしてたら、生活が続く。

 

 そんな唐突な自分語りを挟んだうえで、『あなたを選んでくれるもの』のはなしに戻るけど、この本はそういうことも書いていると思う。つまり私は納豆に選ばれたということで、おなかがすいたので朝食を食べることにする。