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よんでいる日

読書の感想とか

脳のなかの物語(『妻を帽子とまちがえた男』オリヴァー・サックス)

  オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』を読んだ。この本は神経医でもある著者があらわしたエッセイ集である。脳の一部が機能不全を起こした患者たちについて書かれた本であり、タイトルもひとりの患者のエピソードがもとになっている。

 

 そうしたエピソードのひとつひとつは物語になっている。著者自身がそうなるように書いたからだ。この本の「はじめに」でも著者はそのことについて触れているが、著者自身がなぜ患者の体験を物語にしたかということについて直接書いている(と俺が思う)文があるので、以下に引用する。ちなみにコルサコフ症候群という数秒前の記憶も保持することができないという脳機能障害にかかった男性患者について書かれたエピソードについての文である。今度こそ引用。

 

われわれは、めいめい今日までの歴史、語るべき過去というものをもっていて、連続するそれらがその人の人生だということになる。われわれは「物語」をつくって  は、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のア  イデンティティが生じると言ってもよいだろう。(p209、早川文庫)

 

 記憶という物語はそのひとをそのひとたらしめる上で、重要なものだと著者は考えていたことがわかる。上記の文は、そういった物語をこれからさき作ることのできない患者に対しての、著者自身のかなしみみたいな感情を表すものでもあるのだけど。

 

 やっぱ本はおもしろい。

 

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

縁と絆(よしながふみ『愛すべき娘たち』)

 よしながふみの『愛すべき娘たち』を読んだ。おもしろかった。

 

 「娘」という言葉の関係性を考えさせられた。「私の娘」とか「あなたの娘」とか「彼の娘」とか「このひとはあのひとの娘」とか、○○のという言葉が暗に娘という言葉にはついている。もちろん「この小娘め!」みたいに未成熟な女性を非難したいときに使われる場合もあるけど、それはどちらかというと特殊な使い方で、やはり上記の関係を表す意味が「娘」という言葉の一般的な使われ方だろう。つまりすべての女は誰かの娘であるといえる。あたりまえだけど。

 

 その娘たちの、親との関係が、友人との関係が、祖父との関係が、他人との関係が、この漫画では描かれている。

 

 そしてその関係性が、あるひとを自立させたり、その逆に縛ったりする。絆はそのひとが帰ってくる場所にもなるが、そのひとをそこから動けなくさせる鎖になったりする。

 

 ひととの関係ってむずかしくておもしろいと思う。おもしろい本だった。

概念としての関西人が小説を語ると(『ラブレス』桜木紫乃)

 めっちゃおもしろい本読んでしもたからちょっと以下にちょこちょこ書いとく。この記事は関西弁っぽい文で書くから堪忍や。

 

『ラブレス』っちゅうタイトルは跳躍すると「愛のない」という意味に日本語ではなる。つまりこの小説は愛について書かれているという雑なことが言える。愛がいかに欠けているかということを書くことによって、逆に愛っちゅうものが見えてくるみたいな感じ。知らんけど。

 

 ほんで、愛にはさまざまな種類があるっちゅうことがこの小説では書かれているような気がするねん、俺には。どういうことかっちゅうと、性が介在する性愛、家族へ向けられた家族愛、自分への自己愛、ほいでもっと大きなこの世に存在する事物すべてに向けられた愛とか。ひとりの女性がさまざまな経験を通してたくさんの愛のかたちを作り出していく過程が、この小説では書かれていて、それがおもろいなあと俺は思ってん。

 

 んなこと言うても抽象的すぎてわかりにくいし、物語の筋を書いておく。生活保護を受けながらひとり暮らししている叔母に連絡がつけへんようになったからということである女の人が様子を見に行く。ほしたら叔母は倒れてて、意識を失ってしもてる。ほんで、この叔母がこの小説の主要な人物。主人公はいきなし意識不明。物語はいきなり、主人公の終わりの描写から始まる。ほいでその叔母がどういう来し方をしてその終わりにたどり着いたのかっちゅう長い物語が始まる。

 

 で、唐突で悪いけどひとはそれぞれが自分の人生送ってるやんか。俺は俺でいろいろなことやらなあかんし、あなたはあなたのせなあかんことがあって、きみにはきみの事情がある。で、あなたのせなあかんことやきみの事情を俺は知らんし、あなたもきみも俺のやらなあかんことを知らん。なにを当たり前なこと抜かしてんねんと思うやろうけども、まあまあ、そういうもんやんか。

 

 毎朝決められた電車に乗ってると、顔だけ知っているひとが増えてくもんやんか。いつも端っこの席に座って居眠りしているぼろい革靴はいたおっちゃんとか、毎週月曜にはジャンプを重いやろうに片手でつり革持ちながら読んでいる高校生男子とか、いつも音漏れしたイヤホンつけてる(しかも曲はパンク)の女子とか。で、俺はそのひとたちについてなんも知らへん。そのひとらは絶対になにかしらおもしろいところがあるやろうけど、お互いに知り合う可能性はゼロやん。いやなにかしら起きて知り合う可能性はあるかもしらんけどほぼゼロやん。

 

 おっちゃんにはおそらく五十年弱の人生があって、ジャンプ男子には二十年弱の人生があって、パンク女子には何年かしらんけど人生があるんやろう。でも、俺はそれらを知ることはない。

 

 みたいな壮大なようなことを考えさせる小説やった、『ラブレス』は。ある女性の一代記っちゅうくくりかたはできるんやけど、ものすごく開かれた小説やった。おかしな言い方になってまうけど、ひとは生きていれば誰かと関わらざるをえないことがしっかりと書かれてた。あるひとりの女性の一代記ともなれば、そらたくさんのひとと関わって影響を与えたり受けたりするよ、どうしても。

 

 とにかくおもろい小説やった。ほんで関西弁で文章を書くのはなんかめっちゃおもしろかったけど、おもしろく感じるのは確実に俺だけなうえにやたらなれなれしくてそのくせ読みにくい文章になるというデメリットがすごい。

 

 とにかく『ラブレス』はおもろい。

自意識との向き合い方(ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』)

 自意識とどういうふうにつきあっていけばいいのか、という態度を決めることは思春期においてとても重要なことである。自意識が過剰になると他人にどう見られるかということが気になってうまく行動ができなくなるし、逆に自意識がなさ過ぎると自分がされて嫌なことへの想像力が薄まって他人への配慮を欠いた行動をしがちになるからだ。中二病なんていう言葉で揶揄されるくらいイタイ行動をしがちな思春期の内に、ええあんばいの自意識を身につけることができれば、それにこしたことはない。

 

 と客観的に書いてみたところで実際に思春期の頃を思い出してみれば、それどころじゃなかったということにすぐに思い当たる。クラス内のヒエラルキーを気にしつつ、自分に割り当てられた「キャラ」を演じつつ、顔の見えない全国の同級生から遅れないように学業をがんばりつつ、このわき上がる性欲って悪いものじゃないのかというかどう処理したらええのかもわからない助けてとかわけのわからない罪悪感を持ちつつ、と気にかけなくてはならないことが多すぎた思春期ってすげえしんどかったなあと振り返ると思う。子どもは社会的にはさまざまな義務を免除された存在って言われているけど、自分にはひたすらにしんどかったなあということばかりが思い出される。もちろん大人は大人でもろもろしんどいが。

 

 最初の一行に戻るけど自意識との向き合い方っていうのは本当にしんどかったなあと思う。アイデンティティに直結した問題だからしんどいのは当たり前なんだけど、それでもしんどかった。というか自意識とのつきあいは一生続いていくものだからこれからも気は抜けないんだけども。

 

 そして『思い出のマーニー』である。とてもおもしろかった。以下軽いあらすじ。

 

 心を閉ざした女の子のアンナは周囲のひととうまく関わることができず、そんな自分にも自己嫌悪する日々を送っている。アンナは休暇の間、気分転換のために田舎に住んでいる親戚の叔母の家に滞在することになる。そこでのマーニーとの出会いがアンナの心を少しずつ開いていく。

 

 要するに自意識過剰の女の子が主人公である。アンナはその自意識過剰さを存分に発揮する。鳥の鳴き声が「ピティ、ミー(私を憐れんで)」とアンナには聞こえたり、つねに誰かに見られていると感じたり、私は周囲のひとにとって迷惑な存在なんだという自己イメージを抱いているところにそれは表れている。

 

 いやそれ気のせいであなたはそんなにたいそうな人間ではない。そう言ったところでそれは解決しない。自意識過剰は過度の自信に過度の自信のなさを加えると発生する現象で、結局のところ折り合いをつけることがまず必要とされるからだ。そのあとでようやく具体的な行動がとれるようになる。そうした折り合いをつけることをすっとばすと、身の丈に合わない大きなことばかりおいかけて何者にもなれないまま年を重ねることになったり(俗に言うアイデンティティの拡散)、逆に自身を過小評価してなにものにもなろうとしなかったり(俗に言うとなんなんだろう)することにつながる。

 

 その折り合いをつけるのを助けてくれるのは常に他人というわけで、ここでマーニーが登場する。誰とも仲良くなろうとしなかったアンナではあるが、なぜかマーニーとは仲良くなれそうと思う。そしてふたりの秘密の交流は始まる。その中でアンナは自分だけが不幸だと思うのではなく、存在するひとの数だけ不幸があることをマーニーを通じて学んでいく。そしてその逆に幸せもあるということを。

 

 そうしてアンナは他人と交流することによって徐々に自意識過剰から脱却していく。

 

 俺はこのおはなしをひとりの女の子が成長して他人と関わることができるようになっていくというふうに読んだけど、この他人と交流することと自意識過剰からの脱却が鶏と卵の関係みたいになっているところがおもしろかった。自意識過剰じゃなくなっていったから他人と交流できるようになっていくのだけれど、自意識過剰じゃなくなっていったのは他人と交流したからだ。どっちが先なのだろう。

 

 もちろんマーニーとの交流がアンナを変えたのだけれど、そのマーニーっていうのがなかなか曲のある存在で、ただアンナが他人と関わったというふうに読めないところもおもしろい。

 

 この本を中学生か高校生の頃に読んでいたらどうだったろうと思う。たぶん救われただろう。いま読んでも、かなり響く。おっと、最近の俺は自意識をないがしろにしていないかなと考えさせる効用もある。中庸がいいんだろうけど、凡人の俺はそれをめざすと中途半端になりがちなんだよな。などと自意識についてうだうだ考えることもできる本だった。おもしろかった。

 

 (追記3/24)

 

 自意識との向き合い方というタイトルなのに、そのことを書き忘れていた。

 

 『思い出のマーニー』を読むことがその助けになるひともいるかも、と書こうとしたのだった。この小説は主人公のアンナの視点で進むのだけれど、最初の方は自分のことばかりが描写されていた内容が、後半に進むにつれて周りの風景や他人との交流の描写に変わる。

 

 たぶん過ぎた自意識はそういうふうにして薄まっていくのだろう。楽しいことを見つければそのことをけっこう考えるようになるだろうという。つまり楽しいことを見つければいいという毒にも薬にもならぬ結論。でも自意識に凝り固まっているときにそうするのは難しい。

 

 まあお互いにがんばろうぜ、自意識っていうのはある程度は必要なものだし。というやっぱり毒にも薬にもならぬ結論。

もろもろの日常(橋口亮輔『恋人たち』

 むかし話題になったことのある映画だ、とツタヤで棚を眺めているときになんとなく『ぐるりのこと』という映画のDVDが目にとまった。借りてみた。びっくりするくらいおもしろかった。見終わってすぐに監督の名前を検索するとちょうど新作映画が公開されているという記事があった。その翌日に映画館に走った。

 

 妻を通り魔に殺されたショックから立ち直れずにいる橋梁点検士の男、夫とも姑ともうまくいっていないと感じているパートの女、自分が社会的に優れ ているがゆえに他人への想像力が薄い同性愛者の弁護士の男、以上それぞれ三人の主人公が登場する。そしてそれぞれ問題を抱えており、その問題に苦しむ過程が三人それぞれに描かれている。

 

 というわけで『恋人たち』を見た。個人的にはもちろんおもしろかったけどもそれ以上に優れた映画なんだろうと感じた。「優れた」というのはどういうことかというと、言葉にするのは難しい。適度に使われる隠喩だとか、登場人物が苦しんでいる場面なのに笑えてしまう(それゆえ余計にかなしい)脚本の絶妙さとか、登場人物の心理にあわせて効果的に使われる音楽とか、いろいろなことがいえる。映画は本当にさまざまな要素からできているからだ。

 

 個人的に印象に残ったのは同性愛者の弁護士が密かに思いを寄せていた友人との関係が失われる場面だ。あそこはざまあみろとも思える場面だと思う。この弁護士は他人の気持ちをあまり考えない嫌なやつとして描かれていたから。でも、俺はなによりも普遍的な感情を扱った場面だと感じた。

 

 たぶん恋人と別れたことのあるひとの多くは、別れるときに似たようなことを感じたんじゃないかと思わせるようなシーンだったからだ。というか恋人と別れたての俺にとっては、自分の頭の中がのぞかれているんじゃないかというような馬鹿なことを思わされるくらいひびくシーンだった。同じことを感じている人がたとえフィクションの中であろうと存在することに、これだけ慰められるとは思ってもみなかった。

 

 というわけで『恋人たち』は個人的にものすごく印象に残った映画だった。おもしろかった。

現実を物語にすること(ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』)

 『悲しみのイレーヌ』を読んだ。この小説はとてもおもしろい。そしてとても悪趣味だ。

 

 異常な連続殺人事件を追う刑事たちの様子がユーモラスに描かれたミステリー、というふうにこの小説はまとめることができる。でもそれだけじゃなくて、俺はカウンセリングの事例報告の問題とこの小説はつながるんじゃないかなーと思った。ということで、以下脱線。

 

 自分が受け持ったとあるクライアントがどのように変わっていくかということを、カウンセラーは職業的な訓練としてお互いに報告しあう。これを事例報告という。

 

  Aという女性のクライアントがいたとする。彼女は女子高生で、権威的な父と抑圧的な母のもとで生活しており、兄はその家族から逃げ出すように家を出て行っ た。彼女は自分だけは家族のためにしっかりしなければと常々感じており、友人とのつきあいは最小限にとどめ、自分を厳しく律して勉強に励み、そして結果を 出している。「成功した人生」を送るにはそうしないといけないと強く思っているからだ。

 

 そんな彼女がからだの不調を訴える。さまざまな病院を巡っても原因はわからない。もうどうすればいいのか、彼女にも家族にもわからない。わらにもすがる思いで彼女はカウンセリングを受けることになる。

 

 個人が特定されないように情報は改変されているが、カウンセリングの事例報告はそのように、クライアントの生活を物語にすることでおこなわれる。

 

 ここでひとつ問題がある。その事例報告は現実に存在するクライアントのことをわざわざ語る必要はないのではないかということだ。想像上の人物を設定し、想像上の問題を彼もしくは彼女に与え、どのように回復していったかを報告すればいい。

 

 そうした問題点を指摘されたカウンセラーは、それは大切なことで考えなくてはならないことだと言った。

 

 『悲しみのイレーヌ』に話は戻る。この小説は物語内物語がその大半を占めているという構成でできている。小説の九割を占める第一部は、じつはいかれた殺人犯が想像力を働かせて書いた物語で、第二部はいままでその物語内物語で描かれていた刑事たちとはさまざまな点で違う現実の刑事たちが犯人を追うという、ふたつのパートに分かれている。第一部が物語で、第二部が現実。

 

 そして第二部の現実は悲劇的な物語みたいに終わる。もちろんこの本自体がフィクションだし、タイトルから悲劇的な結末なんだろうとたいていの人が予想するだろうけど、そのうえでこう終わるのかと驚くと俺は思う。

 

 カウンセリングの事例報告における問題(それはべつにつくりばなしでもいいのではないか)が、この小説をあいだに置くとすこしわかるような気がすると俺は思う。でもわかりにくい結論を述べる前にもうすこしだけ回り道をする。

 

 俺は毎日決まったことをして過ごしている。そしてすこしおもしろかったことがあったりすれば、その前後を省略し、おもしろいところだけを抽出して友人に話す。こんなおもしろい本があった、電車にスーパーマンの衣装を着たむきむきの男性がいたよ、などなど。

 

 その本を読んでいるときの俺の姿勢とか、電車の窓から差し込む陽がきらきらと輝いていたなんてことは切り落とす。そうしたほうが俺の伝えたいことをちゃんと相手に伝えることができると思うからだ。

 

 それに実際にあったことを話す必要もないと言える。キリンが電車と併走していて驚いたなんてことを俺は話そうと思えば話せる。話さないけど。おもしろくもないし。

 

 つまり俺は自分の現実(体験でも感じたことでも)を日々しこしこと物語に加工して誰かに伝えている。ときどきは現実にはなかったことを話すこともある。でもそれらふたつが端から見たら物語であることには変わりない。

 

 たぶんカウンセリングの事例報告における問題と、物語と現実の比重が偏った『悲しみのイレーヌ』と、俺がなんの気なしにやっているすこし変わったことを誰かに伝えることは次の考え方をとればすこしわかるんじゃないか。

 

 ひとは現実を物語を通して認識している。

 

 とにかくなにが言いたいかというと『悲しみのイレーヌ』はおもしろい。

ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』を読んだ日

 ミランダ・ジュライが書いたノンフィクション『あなたを選んでくれるもの』を読んだ。おもしろかった。しかしなにがおもしろかったのかということを言葉にするのは難しい本だった。ということでそれをつらつらと考えながら書いていく。

 

 作者が追い詰められているところからこの本は始まる。彼女は映画を撮ろうとしているのだが、その作業が行き詰まってしまう。そこで現実逃避として、自分の名前をググり自分がいかにうざがられているか知るという自分でもこんなことをしていてはいけないと思うような日々を送っている。そして彼女は発作的に、新聞に折り込まれたフリーペーパーに「○○売ります」と個人で広告を出しているひとたちにインタビューすることを思いつきそれを実行にうつす。目の前の作業から逃げ出すために。

 

 ネットが発達したこの時代にわざわざ紙媒体に広告を掲載する人々は、自分の名前をググりいかにうざがられているかを手軽に知る彼女とは違う人々である。そしてそれはこんなふうにネットで日記を書いている私とも違うといえるだろうし、もっというなれば現代の多数のひとたちとも違ったひとびとであるといえると思う。

 

 彼女は自分とは違うひとびとに出会い、驚き、うんざりし、感動したりする。ページを繰る私もそう感じたし、ネットに繋がってさまざまな情報を見たり聞いたり交換したりする他のひともこの本を読んだらそう感じるんじゃないかと思う。

 

 彼女の理解の及ばない人たち、私の想像を超えたひとたち、あなたとは異なるひとたちが登場する。すっきりしない一文にまとめれば、「他者」との交流がこの本では書かれている。と私は思う。

 

 話は変わって、私は本が、その中でもフィクションが好きでずっと読んできた。

 

 そうやって読書をする理由は楽しいからの一言に尽きるのだけれど、同時にこうも思う。俺はなんで現実にはいないひとたちがあーだこーだするさまが描かれた文章を読むのが好きなのだろう、意味ないのに。理由はもちろん楽しいからという一言に尽きる。不毛だ。

 

 そうした原因とか理由を言葉にすることはむずかしい生理的な好き嫌いはどこからやってきたのだろうと思う。自分が生まれた環境にたまたま本を読むことが選択肢のひとつとしてあったから私はいま本を読んでいるわけだけど、それ以外の選択肢を選ぶこと、例えば重いものを床から持ち上げることとかを無上の喜びにしてももちろんよかったわけだ。

 

 でも気づいたら私は読書やドライブ、ギターを弾くことが好きで、友人との馬鹿話を楽しんだりする人間になっている。筋トレはあまり好きじゃない。

 

 もちろんいろいろと変わったものもある。禁煙はしたし、すばらしい音を求めてエフェクターを買ったりしなくなった。納豆が好きになったし彼女とは別れたし、ミッシェルガンエレファントを聴いても心躍らなくなった。

 

 そういうことは俺が選んだことじゃないよなと思う。好き嫌いは私が選ぶんじゃなくて、向こうが選んだという面もあるな、と。

 

 好きだったものがどうでもよくなったり、嫌いだったものが好きになったり、必要なものを諦めたりしてたら、生活が続く。

 

 そんな唐突な自分語りを挟んだうえで、『あなたを選んでくれるもの』のはなしに戻るけど、この本はそういうことも書いていると思う。つまり私は納豆に選ばれたということで、おなかがすいたので朝食を食べることにする。